nikki

適当なことを言う日記です

ポートランドのスピリチュアル叔母さん

うちの叔母はポートランドでスピリチュアル・カウンセリングを開いて15年の本物のスピリチュアルおばさんで、先日5年ぶりに会いに行ったが、相変わらずぼくの人生の目標であり続けていた。

超然的というよりはめちゃくちゃ自然体という風で、うさんくさい箴言も言わず、おっとりしていて、そのくせ「教えてくり」とか「行くます」とか変な日本語を喋る、ただただハッピーでいるだけの人だが、子供の頃からこの人のことが好きだった。好きだった、というが、先日再会してやっと「あっ、この感じ懐かしい、、そういえば昔から好きだったな、、」と思い出したので、ここ数年はすっかり意識の表には出ていなかった。

しかしこの人がぼくの人格形成に大きな影響を与えていることに疑いの余地はなく、思えばぼくは父とも兄とも弟とも性格が似つかないし、母とは近からず遠からず、でもぼくよりもっと堅実な人なのでまさにこの人とは言えず、親族の誰に似ているかと言えば、間違いなくこの叔母さんだった。

 

その日はどんな流れだったか忘れたけど途中から仕事の話、将来の話になって、叔母さんは

「りょうちゃんはアンハッピーにならないから大丈夫よ。好きなものだけを選んでいけば自然と幸せになるようにできてるから」と言った。「きっと辛い状況になっても、”不幸せってなんだろう?今はつらいけど食べられているし、住むところはあるし、生きてるし、、”って思うでしょ?そういう人はアンハッピーにはならないの。不幸せは自分を不幸せだと思う人にだけくるから。私は好きなものだけ選んでいって、結果として今ここでいろんな人の話をきく仕事をしてるけど、とっても楽しい。周りは色々言うかもしれないけど、好きなことをやってる人がきっと一番素敵でハッピーになれるんじゃない。好きじゃないものがあったら、ただ嫌うんじゃなく認めてあげて、でも無理に好きになろうとしなくていいし、素直に生きてみるといいよ」(アンハッピーとも不幸せとも言っていたのがすごく印象に残っている。ちなみに叔母さんは当然英語も日本語も喋るが、石垣島出身なので訛りがあって、それもまたうまい具合にほわんとしていて、自然でのんびりした口調がすごく心地いい)

 

 

何が好き?という質問にノータイムで答えられなくったのはここ最近のことで、少し前までは特に深く考えず音楽とか本とかゲームとか映画とか言っていたように思うけど、今はなんか無駄に考えてしまって、結局「…………音楽…かな…?」みたいな答えになってしまうことが多い。

好きな音楽はあるが他の人ほど開拓欲みたいなものはないし、本なんて自分以上に読んできたひとが身近に限定してもごまんといるし、ゲームはここ数年まともにやってないし、映画はぶっちゃけよく知らない。

「よく知らなくても、知識がなくても、愛があるなら好きって言っていいと思う」と好きなゼミの先輩に言われて一生懸命考えたことはあるが、正直よくわからなかった。

好き?なゼミの先輩?

 

好きなものを選んでいけばいいという叔母さんにこの話をしたらちょっと笑われて、「りょうちゃん、グレープフルーツは好き?」と聞かれた。

ぼくが子供のころから柑橘類、特にグレープフルーツにクレイジー首ったけなことはなぜか親族じゅうに知れ渡っていて、どれくらい知れ渡ってるかというと、ぼくが会いにくるというので叔母さんがわざわざコストコで大量にグレープフルーツを買っておいてくれたくらい知れ渡っているのだけど、

「それくらいの素直な好きでいいんだよ。直感で生きたらいいさ。」

と叔母さんは言った。

 

ぱっと目の前がひらけた感覚があった。

なんだ、めっちゃ簡単じゃん、と思った。 

今日からはグレープフルーツを基準にして物事を回していこうと思った。すごく単純だけど、想像するだけで面白い。これから先重大な決断をするときに好きか嫌いか、やるかやらないか迷ったら、「こいつはグレープフルーツか?」と自分に聞いてみればいいのだ。大抵のものはNOになるかもしれない、、、でも、重大な決断なんだから、グレープフルーツくらい超えてもらわなきゃ困る。それでいいのだ。

 

 

きっと似たようなことは小説でも映画でも何度も読んだり聞いたりしているはずだけど、フィクションや自叙伝で見聞きするのと、自分の足で外に出て 、尊敬する人と時間を共有して体験するのでは、きっと作用する深度がまるで違っていて、ずっと長く心に残るし、なんか不思議な脳波もドバドバ出てる気がするし、このタイミングで話ができてすごく良かった、と思った。

 

 

「じゃあ、カウンセリング料10ドルね」

「お金取るの!?」

「冗談よ〜」

 

絶対に将来こうなりたいな

部活のマネージャーはボランティアじゃない

こんばんは。

この間飲みの席で「マネージャーはずっと自己犠牲でボランティアしてくれてたんだから、同じお金もらうわけにはいかないよ」という会話を聞いて、すごく心に引っかかったのでそのことについて書きます。

 

あくまで一個人の意見なので、もし「これの何が気になるの?」と思う方がいらっしゃったら、そう思う人もいるんだなと思って読んでもらえると嬉しいです。

 

まず、僕はマネージャーとプレイヤーは本来対等であると思っています。やる内容は違っても、どちらも同じ部活動に打ち込むチームの一員として対等です。

ですが大抵において、マネージャーは「いなきゃ困る」けど「いなかったらこの試合に勝てなかった」というようなことはありません。

ありうるとしても、「もしこのチームにマネージャーがいなかったら……」の世界は想像上のものでしかないので、結局マネージャーの貢献がチームの実績に関わったかどうかは直接観察できません。

つまり「マネージャーの貢献は必要だけど、試合の勝因はマネージャーじゃない」ということを、プレイヤーもマネージャーも事実として認識して、口にはせずとも承知しています。プレイヤーは練習に打ち込み、マネージャーは彼らのサポートをします。

この実績への貢献の薄さとサポートという仕事から、マネージャーとプレイヤーの間に優劣がつけられてしまうのだと思います。

 

マネージャーは「自己犠牲」でプレイヤーのために尽くしているわけではありません。

あくまでプレイヤーと対等な立場で部活動をしています。

それでも、チームの実績に直結しないマネージャーはプレイヤーより下位のものとして自動的に、無意識的に、悪意なしに、認識されてしまいます。

毎朝誰だれよりも早く来て、練習の準備をして、ご飯を作って、洗濯をして、後片付けをして、器具のメンテナンスをして、全員が出たあとに戸締りをして、だれよりも遅い時間に帰って……確かにこれらはチームをサポートする仕事ではありますが、マネージャーもプレイヤーも対等に部活動に打ち込んでいて、そこに優劣はなく、ましてや「自己犠牲のボランティア」なんかではありません。

 

発言者の男性は悪気なく、本当に何の気なしにこの言葉を使ったんだと思います。

それにこの人が他に比べて別段配慮に欠けているとも思いません。

実際にこの発言を聞いても特に何も思わない人も大勢いると思います。

当然、マネージャーが部活動をしていくなかで、「こんなに早くからプレイヤーのために準備をしてあげている」、「忙しいけどプレイヤーのためにも仕事をしなきゃ」という気持ちが出てくるのは自然なことだと思うので、この自己犠牲という言葉を言われた時にみんながみんな不快に感じるわけではないと思います。

 

ただそれでも、マネージャーがプレイヤーと共にしてきた4年間の努力を自己犠牲に回収してしまうことを悔しい、悲しいと思う人は少なからずいると思います。

 

そのことを覚えておいてもらえると嬉しいです。

 

以上です。

チャクラ

考えると怖いことには、自分がもし本源的に音楽文学映像その他文化そのものにたいした興味がないとしたら、自身の体・思想自体はいびつなパッチワークでできた鏡の〜中のマリオネッ、でしかないのではないか、ということだ。

文化そのものに興味がなく、あるのは自己愛とすべての取りうる自己防衛手段への興味だけだとしたら、その消化した文化等の上に構成される自分は、自意識の作り出した「こうあってほしい」という自分でしかなく、それは経験としてあるいは知識としてインプットされた文化群のいびつなパッチワークでできた鏡の中の虚像、過剰で打算的な自意識というカンクロウに操られる傀儡でしかないのかもしれない。

そう思うととても不安になる。人の内面の奔出たる作品を単なるインプットの対象とするのは失礼で虚しい。知識経験としてではなく原体験的に、思想を構成するレベルで文化に触れたいが、そういう強迫観念の下でそれを実践するのでは意味がなく、しかしそれでは袋小路なので、ここはひとつ妥協して、強迫観念下での実践を良しとして、強迫観念下での実践をするのがいいのかとも思うが、それではやはり意味がないので、やはり袋小路なのである。

今月末に人生で初めて日本を脱出する。純で密な触れ合いができるといいな。

人生はシネマティック(ダサい邦題)

胃の不調で肌が荒れました。

 

それはさておき、

なんらかのテーマを決めて日常を送るのは、なかなか日々にハリが出て楽しいです。

 

最近は「映画」をテーマにして毎日を過ごしています。

 

リモコンがしょっちゅうなくなるのは、リモコンに手足が生えて歩いているから。テレビのリモコンとエアコンのリモコンは生き別れの兄弟で、部屋に人がいなくなるとお互いを探して歩き回っているけど、おれは家を出るときにカーテンを閉めて電気を消していくので部屋は真っ暗で、きっとずっと会うことはない。毎日お互いを探して暗中模索。そしておれは毎日リモコンをなくす。

 

当初は半年で終わるはずだった最寄り駅前の工事が終わらないのは、その端にある墓地を取り壊そうとするたびに現場で事故が起こるから。それか、利権争いで土地の所有がうやむやで工事がこう着状態だから。もしかしたら、火星人とコンタクトを取るためにまだ四方を覆いで隠しておく必要があるからかもしれないし、あるいは、当初半年で終わるはずだった工事に普通に一年かかっているのかもしれない。

 

もちろんそんな妄想に耽るだけじゃなく、映画は実生活においてもちょっとした助けになってくれる。

 

例えば、なにを聴いても何故かしっくりこなくて何曲も何曲も延々回し続けるようなとき。そんなときは、自分が主役の映画のワンシーンを想像する。

早朝の郊外の街を自転車で駆ける人物。手袋もはめずに手をジャケットの袖に隠している。冬晴れ、立ち漕ぎ、白い息。そんなシーンにかかっている音楽はどんなふう?

 

他に、なかなか布団から出られない日。これも「朝からキビキビ動いて朝ごはんとかお弁当とか作れる人」に自分をキャスティングすることで解決する。即布団から出られる。調子に乗って紅茶を入れたりするうちに、結局遅刻したりする。

 

このように、テーマを決めて過ごす日々は結構楽しいのです。その上実用的なのです。

 

今は胃の不調で肌荒れがひどいので、手負いの勇者をやっているところ。魔王を倒す日はそう遠くない。

ノーベルやんちゃDE賞

人の劣等感を赤裸々に、口さがなく綴ったものが名作とよばれることが多いのはどうしてだろう。

もちろんSFにも推理小説にも名作はあるけど、こと純文学的分野において、恋慕のみっともなさや郷愁のむなしさ、見栄の自己破壊や落ちこぼれのひねくれた哲学に、文学的価値が見出されやすいのはなぜだろう。

 

ところで、この間寝付けずに早朝の5時過ぎまで起きていたら、窓の向こうから太陽の昇る音が聞こえた。比喩表現だとか、工事の音と間違えたとかそういうのではなく、ゴゴゴゴゴと、確かに遥か空を這い上がってくる太陽の苦悶の声を聞いた。圧倒的に感動的な情景だったのだけど、その後空に昇った肝心の太陽は、眩しすぎて直視することができなかった。

 

人が人の劣等感や諦念やニヒリズムを借りてきて、それに無責任に浸って快感を得ることについて、このことが直接的ではないにしろ小さな示唆を与えてくれたように思う。

 

空に昇った太陽が眩しくて直視できないように、人の誕生よりその死に方に世論の関心があるように、自分よりもっとひどい状況の人を嘲り笑って安心するように、身近な成功者をひとさじの憧憬とバケツいっぱいの劣等感をもって眺めるように……

きっと人は自分の努力で打ち立てる勝利の旗よりも、他人の失敗の上に築いた傲慢の鎖骨でできた小屋に住むことの方を志向する。眩しいものより暗いものの方が目に優しく、自分の現実より他人の劣情に胸を痛める方が安全だから。

自己破壊的な物語はその意味で、見せかけの再生を読者に与える。つまり、人はハッピーエンドではなくむしろバッドエンドに安らぎを覚える。

 

だからこそ世界の名作には、苦悶を筆舌の限りに描いた物語が多い。

 

のかもしれないな、と思った次第です。

 

 

 

つまり僕が朝が弱くて夜更かしが好きなのも、眩しいものより暗いものが好きな人間の避けられない劣情からくるもので、ということは、自伝を書けば一飛びにノーベル文学賞

140では足りないが404文字

正直なところを申し上げれば、私は日本たばこ産業株式会社、すなわちJTの、ウィンストンはキャスター、甘くバニラの香りたつ、そのタール3mgもしくは5mgを好んで喫んでいるわけではありますが、家に備蓄したタバコが切れそうだってんで、こんな時間からコンビニに自転車のペダルをこぎこぎ、かかる銘柄のタバコをボックスで買い、ただいま帰宅したところで、ところがどうにも世間、それもアホ大学のアホ学生は、なんや強いタバコ吸っとるやつが偉いと思い込んでいるらしく、『キャスター吸ってんの(笑)』じゃねえ、てめえの脳みそは5mgもねえだろうが、と思うが、私の心は凪の日の海のように穏やかで気宇壮大、物事の皮相に固執しては無為徒食に甘んじる輩に世話を焼いている暇があればナスを炒め酒のツマミを作るのに心血を注いでは心が貧血の様相なので、ここは一発キャスターでも吸って復活しようという魂胆で、つまり、キャスターはめちゃうまい。以上

去ぬ 居ぬ 犬

この間の火曜日は月一で開かれるゼミの飲み会で、教授と先輩と自分の3人で、死生観や宗教とそれにつながる哲学の話をした。

一次会では15人いた参加者も二次会で8人に減り、そしてとうとう最後の三次会に残った3人だった。

自分の所属するこのゼミはもともと経営史や組織論を学ぶゼミで、飲み会の席でまさかそんな話になるとは思わなかった。流暢に死生観について持論を展開する教授をみて驚いたが、確か初めの自己紹介でプラトンだかアリストテレスだかの古代ギリシア哲学が好きだと言っていた気がする。

 

 

さて、師曰く、人が生きる理由とは、「今世で人に生まれた幸せを噛みしめるため」だという。人として生きるために他の生物を食らう人は、その限りにおいて今世で重大な罪を犯している。運良く来世でもう一度この世界に生まれたとしても、モノを考えることもままならない畜生道に堕ちるのは必然で、「思考」の許される今世に感謝しそのメリットを最大限享受するために生きるべきだという。

たけど、犬畜生が不幸だという理由は?その根拠は?「思考」の浅い生き物は不幸なのか?さらに言えば、「思考」を放棄した人間は不幸だと言えるのか?

当然方々、様々な疑問は出るが、また師曰く、「君たちはまだ若い、よく学べ」だそうだ。これを言った時の教授の顔はひどく楽しそうだった。若い頃の自分を見ているようだと言っていた。

 

 

時々自分は、深く考えることのない人間、今までの話でいえば「思考」の浅い人間を、羨ましいと思うことがある。深く考えず思い立ったことをすぐ行動にうつせる人に、ムカついたらムカついた分だけ暴れる人に、思ったことを率直に言える人に、世間の目よりも自分の直感を大事にする人に、皮肉を皮肉とも思わない人に、憧れることがある。

 でもそれは、自分が他の人より深く考えすぎてしまう性質を持っていてそんな人たちと不可逆な位置にいるという傲慢が、悲劇のヒロインぶったナルシシズムが、背景にある。家でだらりと尻尾を垂らして寝る犬猫や、ポイですくわれて水槽で飼われる金魚に、「お前らは楽でいいなあ」と言うのとなんら変わらない。なる気もないのに、「どうせこうはなれない」と羨んで、蔑んで、憧れている。

 カフカの「変身」でも、教科書で読んだ「山月記」でもない、葛藤のない幸せな生まれ変わりを夢見ている。

 

いずれにせよ、思考に絶対の正解はない。「起きたら犬になってねえかな」と思って、今日も昼から眠るので、飲み会の時間になったら起こしてほしい。