nikki

適当なことを言う日記です

備忘:コートールド美術館展メモ

セザンヌは字がでかい


セザンヌ

風景画は茶っぽいオレンジと緑の割合がかなり多い。草木の緑、幹や土の茶、空の青。1870年代はかなり明るめ、80年代前半も、後半あたりから暗くなってくる(サントヴィクトワール山とか)

風俗画は風景画より画面が暗い。(80年以降に書かかれてる)。屋内の人をかいているから?緑もほとんどない。

 


キューピッドのやつ1894?

キューピッドの石膏の輪郭が割としっかりある。りんごもある感じがする?


ルノワール

印象主義から出発、肖像画家。

彫刻もやる。四大元素の水と火に注目、洗濯する女と鍛冶屋をつくる。


ドガ

舞台上の二人の踊り子1874

背景にあるのなに?もじゃもじゃ。立体物っぽい。バレエの装飾って二次元の幕だけでやるんじゃないのかな?調べる

ドガも彫刻やった。生前に発表したのは1点だけど、アトリエには150とかたくさんあった。

 


ロートレック

2点しかないけど、どっちもこわい。

ジャヌ・アブリル1892のやつはグラビデくらってるみたい。個室の中(ラモールにて)1899は女の顔が醜悪、前景の静物もこころなしまがまがしい。ラ・モールは死んだネズミの意。

 


フォリーベルジェール

1895のポスターにボクシング・カンガルー。

 


マネのフォリーベルジェールのバー

前景の静物(ボトルとかオレンジとか)は繊細に描かれて、後ろの鏡にうつる群衆は雑多。

この絵はアトリエにバーを再現して描かれたものである、現実に画家の目の前にあったのはバーのみ、うしろの鏡の光景はなかった。だからこそのコントラスト?

 


ドガもかなり光に気を遣った画家だったのでは。印象派的な移ろいというより、フェルメールとかレンブラントみたいな陰影の美。

 


セザンヌの未完成の「曲がり道」

こんなところから描いていくの!?おもしろい

 


スーラのクールブヴォワの橋、点描なのに輪郭線があるみたいにモチーフの境目がくっきりしてる。

 


ゴーギャンの干し草、労働の場面を描いているけど写実的でなく、色彩ゆたかで装飾的。

 


ゴーギャン、輪郭線がかなりしっかりしている。平面性、装飾性。

 


ボナールの好きなところ、人の表情とかポーズが間抜けっぽいところ。

せめてあなたがサディスティックであったなら

誕生日に山吹色のガーベラの切花を二輪もらった。

人から植物をもらうという経験がなかったから花瓶はひとつも持っていないし、まして茎の切り方、花の挿し方、切花の寿命などもわからず、四月から花屋でバイトをしている友人をたのんで簡単なやり方を教わった。花瓶がなければコップで替えが利くからなんでもいいけど、水位はあなたの人差し指の第二関節くらい、茎が傷むので水を入れすぎてはいけない、毎日水はかえること。そのときに少しずつ茎の先を切ると良い、あ忘れちゃいけないのは、茎は水の中で斜めに切ること。表面積が大きいほうが水を吸いやすいから。そんなふうにすれば冬場だし十日くらいは元気なはず。ちなみにオレンジのガーベラの花言葉は神秘、冒険心。似合わねー。あと山吹色の山吹って花だから、「山吹色のガーベラ」ってすごい違和感ある。まあ上手くやって。切花って生きてるからね。

 

毎日朝に水をかえて、茎を切ると、植物が生きているという事実に肉迫する。生かされることと生きることの違いが当人の意志の有無に依るのなら、そもそもなにも志さない植物にとってその区別は意味を成さない。成さないけれども、やはり二つは同義ではない。犬と狸をどちらもchienと呼ぶフランス語に犬と狸の区別は存在しないが、それら自身はあくまで(あたかも!)明確に犬と狸でしかないように。

 

何日か後に、花をくれた人にお礼を言った。切花ってけっこう長持ちするんですね。お花をもらったのって初めてだったので、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

ああ……そう?それなら良かった。てかそれ、買ったって言ったけど、実は居酒屋で配ってたやつなんだよね笑 ごめんごめん。あんまり嬉しそうだから言えなくてさあ。

 

傷つくということはなかったけれど(ガーベラはかわらず溌剌と生きているから)、どうせ打ち明けるならもっと嗜虐的にやってくれたらよかったのにと思った。隠し通してほしかったとはまったく思わないけれど、人が少なからず傷つく可能性のあることをその人がわざわざ正直に打ち明けてきたことに違和感があった。その人はサディストではなく、また誠実でもなく、うろんな人なのだ。悪い秘密を悪い秘密として保持できる人で、打ち明ける道理がないのだ。

 

花をくれた人が帰ってから、同席していた友人が言う。

私さ、実はあれ、居酒屋でもらったって知ってたんだよね。それでひどい話だと思って、ちょっとお説教した。絶対にあなたなら隠されるより打ち明けられたほうがいいと思ったから、タイミングをみつけてちゃんと言いなって。別に悲しんだりしないと思うから。

 

ああ、この人は私というものを心得ている。すごいな。

ありがとう。

 

どういたしまして。それで、はい。

 

そう言って、葉のついた金木犀の切花をくれた。

わたしには花をくれる友人がいるのだと思った。

自他の境界線を強く引け

共感ということについて

ジョーカーをみた とても面白かった 特に階段を降りるように上るアーサーと、上るように降りるジョーカーの画が忘れられない 映画の中のひとつひとつの辛い出来事には脈絡がなく唐突だけれど、人生だって本当はそういうもので後から理屈で無理筋を通しているだけだと思う 

ジョーカーをみて、「子どもに悪影響を与えるからみせない方がいい」という人がいるらしい 人は本来そんなに他人に共感するものなのかと驚く そういえば、13の理由というドラマが同じ理由でアメリカの一部の学校で禁止されたという話もあった 自殺した高校生が生前に録音したテープを主人公が再生していき、自殺の本当の理由が明かされていく、というストーリーだった このドラマが禁止されたときも、驚いた 驚いたというか意味がわからなかった でもいまはその理由がわかる みんな他人のことを自分のことのように思っている 自殺を美化するドラマをみた子どもがみんな(あるいは一部)自殺を良いふうに捉えると思っている(※ちなみに私は自殺が美化されているという指摘もまったく的外れだと思うけれど) ジョーカーをみた社会的に辛い状況の人が「私もジョーカーになれる」というふうに捉えると思っている そして実際にそういうふうに捉える人がいる それは「今の時代誰もがジョーカーになりうる」という問題提起とはまったく別物の、過度の「共感」の行き着く先であるように思う 行くところまで行ってしまった ぞっとする 

だって、あなたはあなただし、他人は他人でしょう?

ひきだし、しわ寄せ

何年か前から会話の“間”に頓着しなくなった。

返答に迷えば保留するし相手の言うことが理解できなければ何回でも聞きかえす。ぴったりくる言葉が見つかるまで時間をかけて考える。そのようにしていたらなぜか身振り手振りが自然に大きくなっていた。それはとりもなおさずなにか愉快なことを言ったわけでもないのに「面白いね」とか「違和感がある」とか「相づちがこなれてない」とか「コミュニケーションがへた」とかそういうことを言われる原因なのだけれど、どうにかしようという気はいっさい兎の毛ほども心のなかにはない。

棒で突いた球が別の球に当たる、その球がまた別の球に当たる、その球がまた別の球にぶつかる、それから……そういう繰り返しの最後にすこんと落ちるような綺麗な会話が僕にはできない。模倣はできる。間を埋めるほかに意図のない発話でさくさく会話を進めることはできる。ただの音か、意味のないうろを発している感じがする。

いちばん自然で嘘の出てこないタイミングで音を発する。そのためには間が必要なので、間を取る。「倫理」や「誠実」みたいなものがたしかにあるらしいということは知っているけれど、それを獲得してはいないから、嘘をつかないように、内面のうろが出ないように、気をつけて、間を取る。間を取りながら、頭のなかで関係のありそうな抽斗をひとつずつ順に全部あける。最近はひとつの抽斗にひとつの言葉が入っている。すこし昔、たくさんの言葉を短い間で繰り出していた時はひとつの抽斗にもっとたくさんの言葉が入っていたような気がするけれど、間を取るようになってから脳がひどい体たらくで棚ごとのキャパシティが減ってしまった。

困っている。

 

知らない人と話す

それは愛と恋とセックスの区別がついていないってことですよ、言わせてもらいますけど。

 

年の上下に関わらず敬語を貫くひとで好感を持った。愛とか恋とかはよくわからないから、

 

はは、そうかもしれない。わからなくてすみません。

 

と答えた。

 

結婚ならまだわかる、生活のために手を組むことは私にとってとても合理的に思えるから。でも大学生みたいな交際ってなんの意味があるのかわからない、それって結局、負い目なしにセックスができるようになるって以外に意味はないんじゃないの。

 

私の方からそう言った、返答が、愛と恋とセックスを理解していないからそう思うのだ、ということだった。そうかもしれないしそうでないかもしれない。確かに私は精神的な結びつき(プラトニックとか言われるやつ)とか、ことに及ぶ前の予定調和とか、事後の安心感と空虚な気持ちとか、退廃的な生活への憧れとか、そういったものについて語る言葉をもたない。そも、恋愛の成就・蹉跌などを通じた精神的成長というものを経験したことがない。人との関わり、とくに情欲のなかで生じる悲喜こもごもを知らない。自己の経験に基づかない代理学習には限界がある。だから私は恋愛に意味を認めることができない。認識することができない。そういう姿勢が、愛・恋・セックスなどを正しく認識していない、ということだ。ろうと思う。その後すぐに幹事が席替えをすると言ったので、おしまい。そのひとは別卓に移った。私はおなじ場所に残った。話はそれでおしまい。

 

昨日ストリップをみたんだけど、体がすごい綺麗で、ミイッちゃうっていうか、あの見るの方じゃなくて魅せられるの方の、なんかもう芸術〜〜って感じだった。すんごいの。

 

愛・恋・セックスのひとが離れて空いた席に別のひとが座ってそう言った。

 

へえ。ストリップって行ったことがないからよくわからないけど、あれってすごい気まずそう。

 

私が言った。

私はよくわからないことだらけだ。おまけに感じが悪い、行間が読めない。

おしまい。

 

ムンク

先日、といってももう2ヶ月ほど前になるが、上野にムンクの展覧会をみにいった。

 

一番心に残っているのは、偏執的なまでに生き生きと描かれた岩。舞台は海岸やら森やら様々だった記憶があるが(なにぶん時間が経ってしまっているので定かではない、もっと言えばムンクと正面から向き合ったのはこの展覧会が初めてだったので画家に係る知識はかなりおぼつかない)、その多くの画面前景にオレンジ色でビビッドに描かれた岩がすっ、と据えられていて、なんとなく面白かった。興味深いとかじゃなく、単純にファニーだった。

 

他には、太陽の絵もすごく引き込まれた。エネルギーが迸るとはこういうことを言うのだと思った。けっこう心を打たれたのでポストカードを買おうとしたら、売り切れで入荷待ちとのことだった。そりゃみんな好きだよな、と残念なようなホッとするような、気恥ずかしい気持がした。

 

晩年の作品だという「庭のりんごの木」、そこで木に成っているりんごは至極穏やかで、命の迸りが最後に結実したものであるような気がした。その意味で、太陽を描いたムンクが晩年にこれを描いたというのは腑に落ちる。腑に落ちすぎるくらい

 

さっき「けっこう心を打たれた」という表現をしたけど、今読み返してすごく嫌な気持ちになった。自分のこういうふうに斜に構えて保険をかけるようなところが嫌いだ。思えば自分のことを好きだと思ったことはあまりない。おしまい。