nikki

適当なことを言う日記です

ムンク

先日、といってももう2ヶ月ほど前になるが、上野にムンクの展覧会をみにいった。

 

一番心に残っているのは、偏執的なまでに生き生きと描かれた岩。舞台は海岸やら森やら様々だった記憶があるが(なにぶん時間が経ってしまっているので定かではない、もっと言えばムンクと正面から向き合ったのはこの展覧会が初めてだったので画家に係る知識はかなりおぼつかない)、その多くの画面前景にオレンジ色でビビッドに描かれた岩がすっ、と据えられていて、なんとなく面白かった。興味深いとかじゃなく、単純にファニーだった。

 

他には、太陽の絵もすごく引き込まれた。エネルギーが迸るとはこういうことを言うのだと思った。けっこう心を打たれたのでポストカードを買おうとしたら、売り切れで入荷待ちとのことだった。そりゃみんな好きだよな、と残念なようなホッとするような、気恥ずかしい気持がした。

 

晩年の作品だという「庭のりんごの木」、そこで木に成っているりんごは至極穏やかで、命の迸りが最後に結実したものであるような気がした。その意味で、太陽を描いたムンクが晩年にこれを描いたというのは腑に落ちる。腑に落ちすぎるくらい腑に落ちる。

 

さっき「けっこう心を打たれた」という表現をしたけど、今読み返してすごく嫌な気持ちになった。自分のこういうふうに斜に構えて保険をかけるようなところが嫌いだ。思えば自分のことを好きだと思ったことはあまりない。おしまい。

咳をしてもなにをしても

記憶をシュレッダーにかけるように細断できるのならおれの頭の中はいまごろ黒か白かも判然としない紙屑で溢れかえっているだろう、しかし実際のところ頭に詰まっているのは人の受け売りばかりで紙屑ほどの価値もなく空っぽに等しいものだ、それに資本主義社会は紙屑に意味を与える魔法のような世界なのでいっそ頭の中が紙屑だらけならちっとは生きる希望も湧くのにナァ、など。と考えても、ひとり。

コップの中で氷がとけきるまでの時間をはかったことがある。なんどやっても、私の家よりも彼の家でやる方が、はやくとけた。りんごジュースを注いでも、麦茶を注いでも、飲むヨーグルトを注いでも、結果は同じだった。私たちはそこに霊的な意味を見出してはうっとりした。霊的でロマンチックな、温度の不思議。いま考えれば、なんてことはない、あの人の家にある冷蔵庫の設定温度が少し高いせいで中の飲み物がぬるかったとか、そんなところだろう。ずいぶん古く、小さく、黄ばんだ、おもちゃじみた冷蔵庫だったから。東京といっても西の方の、八王子まではぎりぎりいかないくらいの、ほとんど埼玉みたいな雰囲気の街にその人は住んでいた。埼玉に住んだことはないけれど、その街はいわゆる東京のイメージとはかけ離れていた。うら寂しくて、夕方にはどこからか蚊取り線香の匂いが漂うような街だった。嘘じみた郷愁のはびこる街だった。お互いを慰めるように嘘じみたことを重ねた私たちの関係も、じき終わった。冷蔵庫の特性を魔法に仕立て上げなくては立ちゆかないような関係があっさり瓦解したのは、つづまり当然の成り行きではあった。別れた年は桜の開花が異様にはやかったが、私たちには関係のない話だった。桜は好きだ。新しい彼氏はできないまま、今年の冬はずいぶん寒く長い。今年もはやく桜が咲いてくれると良い。

ひとつ確かなことには、

ほんの少し昔まで

犬は良奴(いぬ)と表記されていたし、

猫は彼奴(きゃつ)と表記されていた、

ということです。

読書会

今度この本を一緒に読みませんか。

いいですね。ぜひ読みましょう。

 

一緒に読むとはどういうことだろう、と、二つ返事で提案に乗ったあとで首を傾げた。一緒に、というくらいだから、喫茶店などで一冊の本を広げ、横並びで座り(対面では片方が上下逆さまで読むことになるのでそれはつらいだろう)、いちいち相手が読み終わったかどうかちらちらと確認しながら、ページを繰っていくのだろうか。「読んだ?」「読んだよ」なんて声をかけながら進めていくんだろうか。いずれにしても、私は読むのが遅いので迷惑をかけることになるかもしれない。それとも、各々が同じ本を一冊ずつ持ち寄り、黙々と読むのだろうか。それって空間を共有しているけどしかし、一緒に読むというのだろうか。まず、一緒にというのは、空間的な距離の近いことをいうのか、それとも時間とか精神とか、3次元よりももっと高次のレベルでの話なのか、よくわからない。そのひとは言葉を丁寧に選ぶひとだけど、同時に含みをもたせて相手に考える余地を与え、悩んでいるのをみて楽しむようなひとでもあるから、今の私はすっかり、してやられている。頭が良くて悪趣味なそのひとのことをカラスみたいだと言ったら、カラスを悪趣味と言下に決めつけるのはよくないと言い返されて、たしかに、と思ってしまった。モチーフとはステレオタイプのことに他ならない。などと本質めいたことを考えている時点で、私はそのひとが悪趣味であることを忘れている。負けている。そんな私をみて、そのひとはやはり笑っている。つくづく悪趣味だ。

 

頭のいいひとに対抗するのに一番良いのは、何も考えず物量的にものごとを行うことだ。だから私は、本を「一緒に読む」という段になったら、喫茶店で対面に座り、そのひとには逆さから読んでもらうことにしよう。それでもそのひとは、きっと勝ち誇ったような笑みを浮かべているに違いない。そして、どうやらその時、私の方でもそれを楽しんでいるように思うのだ。私たちはつくづく、悪趣味だ。

 

「君は寂しいんだね」

言われて、ああ、これは救いのような顔をした呪詛なのだ、と確信した。自分は寂しかったのだと思わされてしまった。とたんに、自分が寂しかったのか、本当はそうじゃなかったのかも分からなくなってしまった。

 

 

「このこと、みんなには内緒にできる?」

この人は、物語が好きなのだな、と思った。

 

 

「詩のように生きられないのなら、せめて好きなように生きたいな。好きなように生きられないのなら、せめて詩のように死にたい」

酔い覚ましの水を飲みながら、その人は言った。

カーテンを開くと、ちょうど朝日が昇ってきた。