nikki

適当なことを言う日記です

すいぜんの的、の苺。

なんとなく身体の調子が悪いと感じるときは、だいたいにおいて糖分、それか水分が足りていない。さいわいカルシウムは始終不足することはないらしく日常で必要以上に自分の狭量さを意識させられるようなことはないけれど、カルシウムなんて経口でも皮膚でも摂取した覚えはないので、おそらくじわじわと体内の骨を溶かして確保しているのだろう。頭蓋骨の、こめかみのあたりか、いまもじゅくじゅくと溶けている感覚がある。脳みそが横から締め付けられて、鬱血している。なんの予定もない日の白昼に、文庫本を片手に陶然と眠りにおちてしまうまえの、ゆるくて心地好い圧迫感に似ている。

 

本当に心底から醇乎たるおもいで食べたかったハーゲンダッツのストロベリー🍓が何者かの手にかかり安置室(冷凍庫)から姿を消した。そんなのってないぜ。ほかにも抹茶とかキャラメルとか期間限定スイートポテト(!)とか色々あるのに、それにアイスの味の中で白眉ともいうべきバニラすらもさしおいて、いちご味を1番に食べるもの好きがいる。にべなく黙って平らげてゴミ箱に残骸を捨てていく。

生き馬の目を抜く東京で今日も暮らしている。

 

 

ももとししとう

冷蔵庫の野菜室その奥底に消費期限をとうに過ぎたししとうがあり、しんしんと積もった黴は細雪を思わせた。目にした途端に視界は靉靆とし、前後不覚の霧中であるいは卒倒しようかというのをすんでのところで引き留めたのは右手にそっと握られたもも(🍑)だった。

 

皮を剥き身を切り皿に盛り付け

「ももが切れたよ」

と言いダイニングでひとりもも(めちゃ甘)を食らいやわらか・プレミアムティシュ コットンフィールで口をぬぐうと、ふたたび冷蔵庫の前に仁王立ちで立ちふさがり、いや冷蔵庫に仁王立ちで立ちふさがれ、えいと野菜室を開けると、ししとうは忽然と姿を消していた。こつぜん。

 

手からは淡いももの匂いがしたから、石けんは使わずに手を洗った。

Ne Me Quitte Pas

ニーナシモンをきいたら留学してたときを思い出してすこし泣きそうになった  それは確実に日常としてしこしことすごしていたはずの留学生活がいつのまにか非日常の思い出にかわってしまっていることのまぎれもない証左で美化ふざけんなとおもい脳内のイメージから必死に色を抜いてはふたたびニーナシモンに色づけされきょうも生活が続いている

どう考えても直接みる世界よりテレビの4K画質のほうがずっと画素が高くて何度みてもあたまが混乱するのは私たちが救いようのない馬鹿だからではなく自己防衛みたいなものなのかとぼんやり思ったがなぜそう思ったのか思い出せない  模範的に生きているうちは決して想像しうるよりも鮮やかには瞬間は過ぎていかない(氷はあくまで冷たくバラはあくまで赤い)

 

おじいちゃんが死にかけている  比喩ではない  生きてほしいけど、けど、無理しなくていいけど、勝手に全身から生命力(があるとすれば)をこちらからあちらにおくるハグをした  もう一週間ももたないんだって  どうする?どうしようもないか  賢しらぶってる場合じゃないにゃん

ポートランドのスピリチュアル叔母さん

うちの叔母はポートランドでスピリチュアル・カウンセリングを開いて15年の本物のスピリチュアルおばさんで、先日5年ぶりに会いに行ったが、相変わらずぼくの人生の目標であり続けていた。

超然的というよりはめちゃくちゃ自然体という風で、うさんくさい箴言も言わず、おっとりしていて、そのくせ「教えてくり」とか「行くます」とか変な日本語を喋る、ただただハッピーでいるだけの人だが、子供の頃からこの人のことが好きだった。好きだった、というが、先日再会してやっと「あっ、この感じ懐かしい、、そういえば昔から好きだったな、、」と思い出したので、ここ数年はすっかり意識の表には出ていなかった。

しかしこの人がぼくの人格形成に大きな影響を与えていることに疑いの余地はなく、思えばぼくは父とも兄とも弟とも性格が似つかないし、母とは近からず遠からず、でもぼくよりもっと堅実な人なのでまさにこの人とは言えず、親族の誰に似ているかと言えば、間違いなくこの叔母さんだった。

 

その日はどんな流れだったか忘れたけど途中から仕事の話、将来の話になって、叔母さんは

「りょうちゃんはアンハッピーにならないから大丈夫よ。好きなものだけを選んでいけば自然と幸せになるようにできてるから」と言った。「きっと辛い状況になっても、”不幸せってなんだろう?今はつらいけど食べられているし、住むところはあるし、生きてるし、、”って思うでしょ?そういう人はアンハッピーにはならないの。不幸せは自分を不幸せだと思う人にだけくるから。私は好きなものだけ選んでいって、結果として今ここでいろんな人の話をきく仕事をしてるけど、とっても楽しい。周りは色々言うかもしれないけど、好きなことをやってる人がきっと一番素敵でハッピーになれるんじゃない。好きじゃないものがあったら、ただ嫌うんじゃなく認めてあげて、でも無理に好きになろうとしなくていいし、素直に生きてみるといいよ」(アンハッピーとも不幸せとも言っていたのがすごく印象に残っている。ちなみに叔母さんは当然英語も日本語も喋るが、石垣島出身なので訛りがあって、それもまたうまい具合にほわんとしていて、自然でのんびりした口調がすごく心地いい)

 

 

何が好き?という質問にノータイムで答えられなくったのはここ最近のことで、少し前までは特に深く考えず音楽とか本とかゲームとか映画とか言っていたように思うけど、今はなんか無駄に考えてしまって、結局「…………音楽…かな…?」みたいな答えになってしまうことが多い。

好きな音楽はあるが他の人ほど開拓欲みたいなものはないし、本なんて自分以上に読んできたひとが身近に限定してもごまんといるし、ゲームはここ数年まともにやってないし、映画はぶっちゃけよく知らない。

「よく知らなくても、知識がなくても、愛があるなら好きって言っていいと思う」と好きなゼミの先輩に言われて一生懸命考えたことはあるが、正直よくわからなかった。

好き?なゼミの先輩?

 

好きなものを選んでいけばいいという叔母さんにこの話をしたらちょっと笑われて、「りょうちゃん、グレープフルーツは好き?」と聞かれた。

ぼくが子供のころから柑橘類、特にグレープフルーツにクレイジー首ったけなことはなぜか親族じゅうに知れ渡っていて、どれくらい知れ渡ってるかというと、ぼくが会いにくるというので叔母さんがわざわざコストコで大量にグレープフルーツを買っておいてくれたくらい知れ渡っているのだけど、

「それくらいの素直な好きでいいんだよ。直感で生きたらいいさ。」

と叔母さんは言った。

 

ぱっと目の前がひらけた感覚があった。

なんだ、めっちゃ簡単じゃん、と思った。 

今日からはグレープフルーツを基準にして物事を回していこうと思った。すごく単純だけど、想像するだけで面白い。これから先重大な決断をするときに好きか嫌いか、やるかやらないか迷ったら、「こいつはグレープフルーツか?」と自分に聞いてみればいいのだ。大抵のものはNOになるかもしれない、、、でも、重大な決断なんだから、グレープフルーツくらい超えてもらわなきゃ困る。それでいいのだ。

 

 

きっと似たようなことは小説でも映画でも何度も読んだり聞いたりしているはずだけど、フィクションや自叙伝で見聞きするのと、自分の足で外に出て 、尊敬する人と時間を共有して体験するのでは、きっと作用する深度がまるで違っていて、ずっと長く心に残るし、なんか不思議な脳波もドバドバ出てる気がするし、このタイミングで話ができてすごく良かった、と思った。

 

 

「じゃあ、カウンセリング料10ドルね」

「お金取るの!?」

「冗談よ〜」

 

絶対に将来こうなりたいな

部活のマネージャーはボランティアじゃない

こんばんは。

この間飲みの席で「マネージャーはずっと自己犠牲でボランティアしてくれてたんだから、同じお金もらうわけにはいかないよ」という会話を聞いて、すごく心に引っかかったのでそのことについて書きます。

 

あくまで一個人の意見なので、もし「これの何が気になるの?」と思う方がいらっしゃったら、そう思う人もいるんだなと思って読んでもらえると嬉しいです。

 

まず、僕はマネージャーとプレイヤーは本来対等であると思っています。やる内容は違っても、どちらも同じ部活動に打ち込むチームの一員として対等です。

ですが大抵において、マネージャーは「いなきゃ困る」けど「いなかったらこの試合に勝てなかった」というようなことはありません。

ありうるとしても、「もしこのチームにマネージャーがいなかったら……」の世界は想像上のものでしかないので、結局マネージャーの貢献がチームの実績に関わったかどうかは直接観察できません。

つまり「マネージャーの貢献は必要だけど、試合の勝因はマネージャーじゃない」ということを、プレイヤーもマネージャーも事実として認識して、口にはせずとも承知しています。プレイヤーは練習に打ち込み、マネージャーは彼らのサポートをします。

この実績への貢献の薄さとサポートという仕事から、マネージャーとプレイヤーの間に優劣がつけられてしまうのだと思います。

 

マネージャーは「自己犠牲」でプレイヤーのために尽くしているわけではありません。

あくまでプレイヤーと対等な立場で部活動をしています。

それでも、チームの実績に直結しないマネージャーはプレイヤーより下位のものとして自動的に、無意識的に、悪意なしに、認識されてしまいます。

毎朝誰だれよりも早く来て、練習の準備をして、ご飯を作って、洗濯をして、後片付けをして、器具のメンテナンスをして、全員が出たあとに戸締りをして、だれよりも遅い時間に帰って……確かにこれらはチームをサポートする仕事ではありますが、マネージャーもプレイヤーも対等に部活動に打ち込んでいて、そこに優劣はなく、ましてや「自己犠牲のボランティア」なんかではありません。

 

発言者の男性は悪気なく、本当に何の気なしにこの言葉を使ったんだと思います。

それにこの人が他に比べて別段配慮に欠けているとも思いません。

実際にこの発言を聞いても特に何も思わない人も大勢いると思います。

当然、マネージャーが部活動をしていくなかで、「こんなに早くからプレイヤーのために準備をしてあげている」、「忙しいけどプレイヤーのためにも仕事をしなきゃ」という気持ちが出てくるのは自然なことだと思うので、この自己犠牲という言葉を言われた時にみんながみんな不快に感じるわけではないと思います。

 

ただそれでも、マネージャーがプレイヤーと共にしてきた4年間の努力を自己犠牲に回収してしまうことを悔しい、悲しいと思う人は少なからずいると思います。

 

そのことを覚えておいてもらえると嬉しいです。

 

以上です。

チャクラ

考えると怖いことには、自分がもし本源的に音楽文学映像その他文化そのものにたいした興味がないとしたら、自身の体・思想自体はいびつなパッチワークでできた鏡の〜中のマリオネッ、でしかないのではないか、ということだ。

文化そのものに興味がなく、あるのは自己愛とすべての取りうる自己防衛手段への興味だけだとしたら、その消化した文化等の上に構成される自分は、自意識の作り出した「こうあってほしい」という自分でしかなく、それは経験としてあるいは知識としてインプットされた文化群のいびつなパッチワークでできた鏡の中の虚像、過剰で打算的な自意識というカンクロウに操られる傀儡でしかないのかもしれない。

そう思うととても不安になる。人の内面の奔出たる作品を単なるインプットの対象とするのは失礼で虚しい。知識経験としてではなく原体験的に、思想を構成するレベルで文化に触れたいが、そういう強迫観念の下でそれを実践するのでは意味がなく、しかしそれでは袋小路なので、ここはひとつ妥協して、強迫観念下での実践を良しとして、強迫観念下での実践をするのがいいのかとも思うが、それではやはり意味がないので、やはり袋小路なのである。

今月末に人生で初めて日本を脱出する。純で密な触れ合いができるといいな。

人生はシネマティック(ダサい邦題)

胃の不調で肌が荒れました。

 

それはさておき、

なんらかのテーマを決めて日常を送るのは、なかなか日々にハリが出て楽しいです。

 

最近は「映画」をテーマにして毎日を過ごしています。

 

リモコンがしょっちゅうなくなるのは、リモコンに手足が生えて歩いているから。テレビのリモコンとエアコンのリモコンは生き別れの兄弟で、部屋に人がいなくなるとお互いを探して歩き回っているけど、おれは家を出るときにカーテンを閉めて電気を消していくので部屋は真っ暗で、きっとずっと会うことはない。毎日お互いを探して暗中模索。そしておれは毎日リモコンをなくす。

 

当初は半年で終わるはずだった最寄り駅前の工事が終わらないのは、その端にある墓地を取り壊そうとするたびに現場で事故が起こるから。それか、利権争いで土地の所有がうやむやで工事がこう着状態だから。もしかしたら、火星人とコンタクトを取るためにまだ四方を覆いで隠しておく必要があるからかもしれないし、あるいは、当初半年で終わるはずだった工事に普通に一年かかっているのかもしれない。

 

もちろんそんな妄想に耽るだけじゃなく、映画は実生活においてもちょっとした助けになってくれる。

 

例えば、なにを聴いても何故かしっくりこなくて何曲も何曲も延々回し続けるようなとき。そんなときは、自分が主役の映画のワンシーンを想像する。

早朝の郊外の街を自転車で駆ける人物。手袋もはめずに手をジャケットの袖に隠している。冬晴れ、立ち漕ぎ、白い息。そんなシーンにかかっている音楽はどんなふう?

 

他に、なかなか布団から出られない日。これも「朝からキビキビ動いて朝ごはんとかお弁当とか作れる人」に自分をキャスティングすることで解決する。即布団から出られる。調子に乗って紅茶を入れたりするうちに、結局遅刻したりする。

 

このように、テーマを決めて過ごす日々は結構楽しいのです。その上実用的なのです。

 

今は胃の不調で肌荒れがひどいので、手負いの勇者をやっているところ。魔王を倒す日はそう遠くない。