nikki

適当なことを言う日記です

ノーベルやんちゃDE賞

人の劣等感を赤裸々に、口さがなく綴ったものが名作とよばれることが多いのはどうしてだろう。

もちろんSFにも推理小説にも名作はあるけど、こと純文学的分野において、恋慕のみっともなさや郷愁のむなしさ、見栄の自己破壊や落ちこぼれのひねくれた哲学に、文学的価値が見出されやすいのはなぜだろう。

 

ところで、この間寝付けずに早朝の5時過ぎまで起きていたら、窓の向こうから太陽の昇る音が聞こえた。比喩表現だとか、工事の音と間違えたとかそういうのではなく、ゴゴゴゴゴと、確かに遥か空を這い上がってくる太陽の苦悶の声を聞いた。圧倒的に感動的な情景だったのだけど、その後空に昇った肝心の太陽は、眩しすぎて直視することができなかった。

 

人が人の劣等感や諦念やニヒリズムを借りてきて、それに無責任に浸って快感を得ることについて、このことが直接的ではないにしろ小さな示唆を与えてくれたように思う。

 

空に昇った太陽が眩しくて直視できないように、人の誕生よりその死に方に世論の関心があるように、自分よりもっとひどい状況の人を嘲り笑って安心するように、身近な成功者をひとさじの憧憬とバケツいっぱいの劣等感をもって眺めるように……

きっと人は自分の努力で打ち立てる勝利の旗よりも、他人の失敗の上に築いた傲慢の鎖骨でできた小屋に住むことの方を志向する。眩しいものより暗いものの方が目に優しく、自分の現実より他人の劣情に胸を痛める方が安全だから。

自己破壊的な物語はその意味で、見せかけの再生を読者に与える。つまり、人はハッピーエンドではなくむしろバッドエンドに安らぎを覚える。

 

だからこそ世界の名作には、苦悶を筆舌の限りに描いた物語が多い。

 

のかもしれないな、と思った次第です。

 

 

 

つまり僕が朝が弱くて夜更かしが好きなのも、眩しいものより暗いものが好きな人間の避けられない劣情からくるもので、ということは、自伝を書けば一飛びにノーベル文学賞

去ぬ 居ぬ 犬

この間の火曜日は月一で開かれるゼミの飲み会で、教授と先輩と自分の3人で、死生観や宗教とそれにつながる哲学の話をした。

一次会では15人いた参加者も二次会で8人に減り、そしてとうとう最後の三次会に残った3人だった。

自分の所属するこのゼミはもともと経営史や組織論を学ぶゼミで、飲み会の席でまさかそんな話になるとは思わなかった。流暢に死生観について持論を展開する教授をみて驚いたが、確か初めの自己紹介でプラトンだかアリストテレスだかの古代ギリシア哲学が好きだと言っていた気がする。

 

 

さて、師曰く、人が生きる理由とは、「今世で人に生まれた幸せを噛みしめるため」だという。人として生きるために他の生物を食らう人は、その限りにおいて今世で重大な罪を犯している。運良く来世でもう一度この世界に生まれたとしても、モノを考えることもままならない畜生道に堕ちるのは必然で、「思考」の許される今世に感謝しそのメリットを最大限享受するために生きるべきだという。

たけど、犬畜生が不幸だという理由は?その根拠は?「思考」の浅い生き物は不幸なのか?さらに言えば、「思考」を放棄した人間は不幸だと言えるのか?

当然方々、様々な疑問は出るが、また師曰く、「君たちはまだ若い、よく学べ」だそうだ。これを言った時の教授の顔はひどく楽しそうだった。若い頃の自分を見ているようだと言っていた。

 

 

時々自分は、深く考えることのない人間、今までの話でいえば「思考」の浅い人間を、羨ましいと思うことがある。深く考えず思い立ったことをすぐ行動にうつせる人に、ムカついたらムカついた分だけ暴れる人に、思ったことを率直に言える人に、世間の目よりも自分の直感を大事にする人に、皮肉を皮肉とも思わない人に、憧れることがある。

 でもそれは、自分が他の人より深く考えすぎてしまう性質を持っていてそんな人たちと不可逆な位置にいるという傲慢が、悲劇のヒロインぶったナルシシズムが、背景にある。家でだらりと尻尾を垂らして寝る犬猫や、ポイですくわれて水槽で飼われる金魚に、「お前らは楽でいいなあ」と言うのとなんら変わらない。なる気もないのに、「どうせこうはなれない」と羨んで、蔑んで、憧れている。

 カフカの「変身」でも、教科書で読んだ「山月記」でもない、葛藤のない幸せな生まれ変わりを夢見ている。

 

いずれにせよ、思考に絶対の正解はない。「起きたら犬になってねえかな」と思って、今日も昼から眠るので、飲み会の時間になったら起こしてほしい。