ザリガニ

時間が足りない。

まだまだ準備ができていない。四年間じゃ足りない。社会に出たくない。実学なんかより、どっぷり思考の沼に浸かってヘドロをすすりたい。何が商学じゃ。くそくらえ。すべての源泉は人の魂だ。ソウルスクリームだ。馬鹿が。

いっそ飛ぼうか。一年飛んで、魂レベルを上げる修行に励もうか。

こんばんは。お久しぶりです。やってられない。

最近ブログを書いていないのは、ちょっと別でものを書いていたからなのでした。あまりに社会に出たくなさすぎて、逃避、逃避。逃避が学生の美点、汚点、盲点、原点。支払猶予をくれ。社会に出たくなきゃ、怠惰を貪ればいいじゃない。

しかし、文章を書くのと話を書くのは全く別物ですね。人の魂を創造して壊すのは、まさに想像を絶するエネルギーを使う。逃避して、休憩。逃げるのにも体力がいる。エクストリームだな。イージーモードをくれ。

大学の見目麗しいあの子も、逃避しているのかな。それで、休憩しているのかな。カラダが冷える前にまた動き出さないと精神が錆び付く。動き過ぎればメルトダウン、休み過ぎればスクラム状態。燃料は嘘っぱち。不可燃性、煙は出ないが燃えもしない。

いずれにせよ、夏が来る。小学生の頃にとったザリガニは何で動いているのだろう。生きて子孫を残すためか。極悪非道、ヒトでありながらヒトの心を持たないそれ自体矛盾したヒトにつかまらないためか。ヒトの心(笑)

ザリガニも体をくの字に曲げて、尻を突き出して、ヒトから逃避。逃避。

ザリガニを捕らえる我らは、我らを捕らえる社会か。

逃げよザリガニ、逃げよ我ら

俺達の青春は

最近本屋行ってますか?

 

店に入ってすぐの所に陳列されている平積みにされた文庫や新刊を見るのは楽しいですよね。ポップも明らかに他のコーナーより力を入れているし、『本屋大賞1位!」なんていうとどうしても気になってしまう。

 

新書コーナーもいい。

『1時間で国際社会がわかる本』気になる。正直ここ最近のパリ協定とかメルケルとかトランプとかのニュース全然わからんし、ドヤ顔で解説できるようになりたい。

『本を読む子は馬鹿になる』そうなの!?なんで!?でもちょっと、知りたいような、知りたくないような。。。納得できる答えがあるんでしょうね。

『柿の種が世界を救う』ふむ。柿の種といえば酒のツマミだから、柿の種が売れて、酒も売れて、みんなは酔っ払ってハッピー、税でクニの財政が潤ってハッピー、経済が回ってハッピー、世界人類ハッピー、か?悪くない。

『猿でもわかる経済学』嘘や!!!!!

 

それでも、この間本屋に行った時に、1番気になったのは中学受験のコーナーで、その中から一冊買ってしまった。

題名は『植物はなぜ動かないのか』。これが一見新書っぽいが、対象年齢が小中〜高校生なところが肝。

植物が動かない理由は、曰く、「人間と植物が真逆だから」らしい。人は口が上半身にあり生殖器官が下半身にある。植物は栄養をとる口たる根が下半身にあり、生殖器官たる花が上半身にある。人はエネルギーを得るために他の生き物を食らうが、植物は光合成で自給自足。

人間は動いてないと落ち着かない、当然、植物は動かない。

学問的もなにもないけど、それがいいじゃない。

 

勉強のしすぎは、世界をつまらなくするな。

去ぬ 居ぬ 犬

この間の火曜日は月一で開かれるゼミの飲み会で、教授と先輩と自分の3人で、死生観や宗教とそれにつながる哲学の話をした。

一次会では15人いた参加者も二次会で8人に減り、そしてとうとう最後の三次会に残った3人だった。

自分の所属するこのゼミはもともと経営史や組織論を学ぶゼミで、飲み会の席でまさかそんな話になるとは思わなかった。流暢に死生観について持論を展開する教授をみて驚いたが、確か初めの自己紹介でプラトンだかアリストテレスだかの古代ギリシア哲学が好きだと言っていた気がする。

 

 

さて、師曰く、人が生きる理由とは、「今世で人に生まれた幸せを噛みしめるため」だという。人として生きるために他の生物を食らう人は、その限りにおいて今世で重大な罪を犯している。運良く来世でもう一度この世界に生まれたとしても、モノを考えることもままならない畜生道に堕ちるのは必然で、「思考」の許される今世に感謝しそのメリットを最大限享受するために生きるべきだという。

たけど、犬畜生が不幸だという理由は?その根拠は?「思考」の浅い生き物は不幸なのか?さらに言えば、「思考」を放棄した人間は不幸だと言えるのか?

当然方々、様々な疑問は出るが、また師曰く、「君たちはまだ若い、よく学べ」だそうだ。これを言った時の教授の顔はひどく楽しそうだった。若い頃の自分を見ているようだと言っていた。

 

 

時々自分は、深く考えることのない人間、今までの話でいえば「思考」の浅い人間を、羨ましいと思うことがある。深く考えず思い立ったことをすぐ行動にうつせる人に、ムカついたらムカついた分だけ暴れる人に、思ったことを率直に言える人に、世間の目よりも自分の直感を大事にする人に、皮肉を皮肉とも思わない人に、憧れることがある。

 でもそれは、自分が他の人より深く考えすぎてしまう性質を持っていてそんな人たちと不可逆な位置にいるという傲慢が、悲劇のヒロインぶったナルシシズムが、背景にある。家でだらりと尻尾を垂らして寝る犬猫や、ポイですくわれて水槽で飼われる金魚に、「お前らは楽でいいなあ」と言うのとなんら変わらない。なる気もないのに、「どうせこうはなれない」と羨んで、蔑んで、憧れている。

 カフカの「変身」でも、教科書で読んだ「山月記」でもない、葛藤のない幸せな生まれ変わりを夢見ている。

 

いずれにせよ、思考に絶対の正解はない。「起きたら犬になってねえかな」と思って、今日も昼から眠るので、飲み会の時間になったら起こしてほしい。

クソ

批評サイトで、「この本は〇〇で、××がテーマだ」などとわかったように評価されると、腹がたつ。

 

例えば、自分が読んだ本について批評している有名なブログを先日たまたま読む機会があった。そこには「この本は壮大なラブストーリーである」という総括がなされていた。

言われてみれば確かにと思うところは、間違いなくある。だけど、おれがその本を読んで「面白い!」と思ったのは、そんな俗的で簡単に説明できるようなところだったか?と思う。そんなはずはない。

この本の主人公は、自分の思考よりも一つ深いところにいる。他人を偉そうに俯瞰しているつもりになっている自分を、さらに俯瞰した場所に、この主人公はいる。そんな主人公が困難に直面し、さらにビヨンドな考え方を提示してくれる。それを本という媒体で示すことのできる作者は、さらにもう一つ深い次元で物事を捉えているんだろう。そしてこの本の最後には全てが繋がり、主人公と親友2人の愛の話だったことがわかる。全ては書き手の意図があって、その上で、物語全体の総括が行われるべきではないか。単純な最後のどんでん返しに目を向けすぎではないか。

あまりに浅はかな見地で語るものだと、憤りを感じた。

 

とはいえ、この考えだって、自分自身のエゴにすぎない。

この批評ブログを書いた人は、それを把握した上でこのような書き方をしたのではないか?

そもそも、この本の筆者にそんな意図は一切なかったのではないか?

 

考えすぎは逆に視野を狭めると言う。誰の耳にも心地のいい話などない。

自分の好きなものを、自分の好きなように消費すればいい。人の消費の方法にケチをつける方がナンセンスなのかもしれない。

 

そんなことをしている暇があったら、大学の勉強をした方がいい。来週の月曜からテストなのに1秒も手をつけていないお前の方がよっぽどくだらない。

 

勉強します。

アラヤマンコウ

ずいぶん久しぶりに行ったドン・キホーテサイゼリヤは、貧乏学生にとってのサンクチュアリであった。

 

ドンキは、見て楽しい、買って楽しい、ひとつのエンターテインメントだ。
売り物の、花火を見れば高校生の遠い日を思い、ヘアアイロンを見れば彼女の生活を思い、カッパを見れば2015年の朝霧ジャムで雨の中見たSPECIAL OTHERSを思った。一曲目の演奏の後に雨がやんで、「みんなの思いが空に届きましたね」なんて凡庸なMCだったけど、目が潤むほどに「そうだ!!」と思ったことを覚えている。音楽でみんなを一つに、なんていうのは綺麗事だけど、「音楽を通して何か同じ一つを共有する」ことはあるんだと思った。


結局ドンキではお香を買った。「自室でお香とR&Bで優雅にチルアウト」、イケてるじゃん。お香のことはよく知らないので、くだんの朝霧ジャムで一緒にキャンプをした知り合いが焚いていたお香を買った(その人がアラヤマさんというので、「アラヤマンコウ」と呼ばれている)。

 

 

サイゼリヤは、ワインも料理も、安すぎる!

「おいしい」と「まずい」はわかるが味の機微には到底気づかないこの舌には材料の良さ云々は問題ではない。サイゼリヤはただただ「おいしい」し、「安い」!口にするものについてこれ以上のことがあろうか。

特に『エスカルゴとバジルのなんとか』には感動した。その味を形容するなら、バジルの野生的で爽やかな味にオリーブオイルの深みが混ざって云々、、、ではなく、「エスカルゴってカタツムリ?はじめて食べるわ……うまい!すげえ!安い!」です。

 

ドンキもサイゼも、安くて楽しくて最高!

 

 

 

 

ところで、今はくだんのお香を焚きながらこのブログを書いているんだけれど、思ったより煙が出る。火災報知器が鳴らないか怖くて、無様に手をバタバタさせて煙を窓の方に流している。

 

なにが、優雅にチルアウトだ。笑わせるな。

矯飾

小松菜のおひたしがまずかった。

そもそも「おひたし」は苦手だった。ほうれん草のおひたしも、小松菜のおひたしも、給食に出るたびにえずきながら食べた。一人暮らしをして、バイトをして、本を読んで、大人になった気がしていた。

小松菜ごときに、自分の成長のなさを突きつけられるとは。

 

結局、小松菜のおひたしにはカレーのルーをかけて食べた。おいしいカレーとまずいおひたしでプラマイゼロだ。

いまだに足し算しかできない自分の成長のなさをまた、呪った。

本日は閉店しました

夜ご飯は鍋にしよう。

ここ一週間で食べたものと、今朝鏡に映った自分の顔を思い起こして、固く決心した。野菜を、ヘルシーを、摂らねばなるまい。

今日の授業が全部終わったら、1人で食べに行こうか。それとも誰かを誘おうか。

そういえば、彼女は今日渋谷で17時までバイトだと言っていたのを思い出した。鍋も食べられるし、気兼ねないし、なによりバイト上がりに彼氏がいきなり現れたら、嬉しくね?

うむ、合理的である。

 

時刻は17時、渋谷に到着する。本屋で時間を潰し待つこと30分、まだかな、そろそろカフェにでも入ってゆったり待とうかな、と思った頃、バイトを上がった彼女が出てきた。もちろん、渋谷にいることは伝えていない。

「わ、なんでいるの!」

「ふふ、、、鍋食べたくない?」

「え、今日は早く帰らないといけないんだけど」

 

……

まったくの誤算。

いや、そもそも、事前に連絡もなしにバイト上がりにノコノコきて、「鍋食べたくない?」なんて、くそ迷惑な話なのでは?

あ、お疲れ様、また会おうね、バイバイ。

 

 

かくして、ノコノコ出てきて渋谷に1人取り残されたわけだけれど、ふむ、一人鍋も悪くない。もともと選択肢にはあったわけだし、歩き回って探せば運動にもなる。合理的だ。

 

探し回ること、これまた30分、なかなか良いお店が見つからない。「渋谷  鍋  一人で」などとググったりもしたけれど、どうも、ストンと落ち着く店が見つからない。

時刻は19時前、もう胃液が胃袋を溶かし始めるんじゃないか、というほど腹が減っていたので、この際なんでもいいから美味しそうな店に入ろ、と思い直し、改めて店を探し始めた。昼飯も抜いたし、ここでちょっと高カロリー摂取しても問題ないっしょ。合理的!

 

ところが、なかなかかえって、選択肢が広がると選びがたくなるものである。どこも全然、ピンとこない。ただしこれは、決して、優柔不断などというふにゃふにゃしたものではないのです。むしろ確固たる意志を持っているからこそ、決まらないのです。「ここだ!」と思う店があれば、一も二もなく暖簾をくぐり、「とりあえずビール」、である。「ここだ!」には、人生でまだ一度も出会っていないが、出会えばそう言うのだから、問題ないです。

 

結局、「材料買って家でひとり鍋をつつこう」という結論に至った。家鍋なら材料費も安いし、好きな時に寝られるし、好きな音楽を流しながら食べられる。究極の合理です。

 

渋谷から電車に揺られること50分ほど、最寄り駅に着いた私は、もう胃袋を溶かしきった胃液が腸まで溶かし始めている気がしたので、駅前の富士そばで「カレーカツ丼」を注文した。

材料を買って、家まで我慢して、野菜がクタクタになるまで土鍋でグツグツやっている間に、全身が胃液で溶けたらどうするんだ!!富士そばは戦略的妥協、いや、合理的奇襲である。

 

鍋ダイエットは、次の機会に。

 

 

 

ちなみに、くだんのカレーカツ丼は1,232kcal、30分のウォーキングの消費カロリーは130kcalだそうですが、俺の「理」屈に「合」っているで、合理だ!!

誰にも文句は言わせまい。