nikki

適当なことを言う日記です

1044文字

うちの姉は少し変わっている。どこがどのように変わっているのか、具体的に言い表すことはなかなか難しいのだけれど、家の中でもしじゅうマスクをつけているだとか、爪をほとんど切らないだとか、生き物のにおいがするから木のスプーンが嫌いだとか、要するにそういうことの積み重ねで、なんだか変なのだ。

 

明日ドライブに行かない、と誘われたのは昨日の夜の話で、僕は、ああ、とか、うん、とか、いいよ、とか言った。誤解してほしくないので言っておくけれど、僕は変な姉のことが好きだ。言ってみるとこっちの方がよほど誤解を招きそうだけれど、あえて何も言うまい。ドライブと言ってどこにいくのか、何をするのか、どちらが運転するのか、姉は何も決めずにいた。あるいは決めていて、何も知らせずにいた。それどころか、今朝になっても姉はまるで出かける準備もそぶりも見せないので、僕は夢で交わした約束を現実のことと混同しているのだろうか、その可能性の捨てきれないうちは姉に声をかけるのも気恥ずかしく、ただ時間の進むまま、昼食にUFOカップ焼きそばを食べ、入念に3回手を洗った。歯を磨きながら、やはり夢だったのだと確信を強め、悲しさ半分にほっとして、DHCのヘム鉄サプリメントを水と一緒に胃に流して、ごくりと喉を鳴らすと、けっこう元気が出たように思った。すると姉が、「そろそろ出るよ」と言うので、僕は、え?ああ、そういえばそんな約束もしてたっけね、ふむ、いやあ、すっかり、うっかり、というふうに、「あ、うん。」と言った。

 

僕はいま助手席に座っている。カーステレオには姉のiPhoneBluetoothで繋がれて、クラムボンが流れている。

 

高いところへ登ろう

とびきり高い高いところへ

そうすれば 二人のこれからも見えるかもしれないね

 

姉は黒い革手袋をはめて車を運転している。あいも変わらず変な姉だ。

 

「ねえ、高いところから未来が見えるなら、うんと低いところで、昔が見えたりするのかな」

 

「さあね。でも、この歌はそういうことを言ってるんじゃないと思う」

 

「馬鹿。昔が見たけりゃ、ビデオがあるじゃん。」

 

 

姉は郊外のだだ広い駐車場に車を停めた。免許センターの駐車場だった。

僕が二時間ベンチに座っている間に、姉は講習を受け終わって免許を更新した。

 

「みて、これ」

 

いましがたとった新しい免許証に写っているのは、確かに今の姉だった。

 

「古いのって、回収されちゃうんだね」

 

「また見たければ、うんと低いところにいきゃいいよ」

 

「つまんない」

ももとししとう

冷蔵庫の野菜室その奥底に消費期限をとうに過ぎたししとうがあり、しんしんと積もった黴は細雪を思わせた。目にした途端に視界は靉靆とし、前後不覚の霧中であるいは卒倒しようかというのをすんでのところで引き留めたのは右手にそっと握られたもも(🍑)だった。

 

皮を剥き身を切り皿に盛り付け

「ももが切れたよ」

と言いダイニングでひとりもも(めちゃ甘)を食らいやわらか・プレミアムティシュ コットンフィールで口をぬぐうと、ふたたび冷蔵庫の前に仁王立ちで立ちふさがり、いや冷蔵庫に仁王立ちで立ちふさがれ、えいと野菜室を開けると、ししとうは忽然と姿を消していた。こつぜん。

 

手からは淡いももの匂いがしたから、石けんは使わずに手を洗った。

Ne Me Quitte Pas

ニーナシモンをきいたら留学してたときを思い出してすこし泣きそうになった  それは確実に日常としてしこしことすごしていたはずの留学生活がいつのまにか非日常の思い出にかわってしまっていることのまぎれもない証左で美化ふざけんなとおもい脳内のイメージから必死に色を抜いてはふたたびニーナシモンに色づけされきょうも生活が続いている

どう考えても直接みる世界よりテレビの4K画質のほうがずっと画素が高くて何度みてもあたまが混乱するのは私たちが救いようのない馬鹿だからではなく自己防衛みたいなものなのかとぼんやり思ったがなぜそう思ったのか思い出せない  模範的に生きているうちは決して想像しうるよりも鮮やかには瞬間は過ぎていかない(氷はあくまで冷たくバラはあくまで赤い)

 

おじいちゃんが死にかけている  比喩ではない  生きてほしいけど、けど、無理しなくていいけど、勝手に全身から生命力(があるとすれば)をこちらからあちらにおくるハグをした  もう一週間ももたないんだって  どうする?どうしようもないか  賢しらぶってる場合じゃないにゃん

チャクラ

考えると怖いことには、自分がもし本源的に音楽文学映像その他文化そのものにたいした興味がないとしたら、自身の体・思想自体はいびつなパッチワークでできた鏡の〜中のマリオネッ、でしかないのではないか、ということだ。

文化そのものに興味がなく、あるのは自己愛とすべての取りうる自己防衛手段への興味だけだとしたら、その消化した文化等の上に構成される自分は、自意識の作り出した「こうあってほしい」という自分でしかなく、それは経験としてあるいは知識としてインプットされた文化群のいびつなパッチワークでできた鏡の中の虚像、過剰で打算的な自意識というカンクロウに操られる傀儡でしかないのかもしれない。

そう思うととても不安になる。人の内面の奔出たる作品を単なるインプットの対象とするのは失礼で虚しい。知識経験としてではなく原体験的に、思想を構成するレベルで文化に触れたいが、そういう強迫観念の下でそれを実践するのでは意味がなく、しかしそれでは袋小路なので、ここはひとつ妥協して、強迫観念下での実践を良しとして、強迫観念下での実践をするのがいいのかとも思うが、それではやはり意味がないので、やはり袋小路なのである。

今月末に人生で初めて日本を脱出する。純で密な触れ合いができるといいな。

ノーベルやんちゃDE賞

人の劣等感を赤裸々に、口さがなく綴ったものが名作とよばれることが多いのはどうしてだろう。

もちろんSFにも推理小説にも名作はあるけど、こと純文学的分野において、恋慕のみっともなさや郷愁のむなしさ、見栄の自己破壊や落ちこぼれのひねくれた哲学に、文学的価値が見出されやすいのはなぜだろう。

 

ところで、この間寝付けずに早朝の5時過ぎまで起きていたら、窓の向こうから太陽の昇る音が聞こえた。比喩表現だとか、工事の音と間違えたとかそういうのではなく、ゴゴゴゴゴと、確かに遥か空を這い上がってくる太陽の苦悶の声を聞いた。圧倒的に感動的な情景だったのだけど、その後空に昇った肝心の太陽は、眩しすぎて直視することができなかった。

 

人が人の劣等感や諦念やニヒリズムを借りてきて、それに無責任に浸って快感を得ることについて、このことが直接的ではないにしろ小さな示唆を与えてくれたように思う。

 

空に昇った太陽が眩しくて直視できないように、人の誕生よりその死に方に世論の関心があるように、自分よりもっとひどい状況の人を嘲り笑って安心するように、身近な成功者をひとさじの憧憬とバケツいっぱいの劣等感をもって眺めるように……

きっと人は自分の努力で打ち立てる勝利の旗よりも、他人の失敗の上に築いた傲慢の鎖骨でできた小屋に住むことの方を志向する。眩しいものより暗いものの方が目に優しく、自分の現実より他人の劣情に胸を痛める方が安全だから。

自己破壊的な物語はその意味で、見せかけの再生を読者に与える。つまり、人はハッピーエンドではなくむしろバッドエンドに安らぎを覚える。

 

だからこそ世界の名作には、苦悶を筆舌の限りに描いた物語が多い。

 

のかもしれないな、と思った次第です。

 

 

 

つまり僕が朝が弱くて夜更かしが好きなのも、眩しいものより暗いものが好きな人間のどうしようもない性質で、ということは、自伝を書けば一飛びにノーベル文学賞

140では足りないが404文字

正直なところを申し上げれば、私は日本たばこ産業株式会社、すなわちJTの、ウィンストンはキャスター、甘くバニラの香りたつ、そのタール3mgもしくは5mgを好んで喫んでいるわけではありますが、家に備蓄したタバコが切れそうだってんで、こんな時間からコンビニに自転車のペダルをこぎこぎ、かかる銘柄のタバコをボックスで買い、ただいま帰宅したところで、ところがどうにも世間、それもアホ大学のアホ学生は、なんや強いタバコ吸っとるやつが偉いと思い込んでいるらしく、『キャスター吸ってんの(笑)』じゃねえ、てめえの脳みそは5mgもねえだろうが、と思うが、私の心は凪の日の海のように穏やかで気宇壮大、物事の皮相に固執しては無為徒食に甘んじる輩に世話を焼いている暇があればナスを炒め酒のツマミを作るのに心血を注いでは心が貧血の様相なので、ここは一発キャスターでも吸って復活しようという魂胆で、つまり、キャスターはめちゃうまい。以上