nikki

適当なことを言う日記です

チャクラ

考えると怖いことには、自分がもし本源的に音楽文学映像その他文化そのものにたいした興味がないとしたら、自身の体・思想自体はいびつなパッチワークでできた鏡の〜中のマリオネッ、でしかないのではないか、ということだ。

文化そのものに興味がなく、あるのは自己愛とすべての取りうる自己防衛手段への興味だけだとしたら、その消化した文化等の上に構成される自分は、自意識の作り出した「こうあってほしい」という自分でしかなく、それは経験としてあるいは知識としてインプットされた文化群のいびつなパッチワークでできた鏡の中の虚像、過剰で打算的な自意識というカンクロウに操られる傀儡でしかないのかもしれない。

そう思うととても不安になる。人の内面の奔出たる作品を単なるインプットの対象とするのは失礼で虚しい。知識経験としてではなく原体験的に、思想を構成するレベルで文化に触れたいが、そういう強迫観念の下でそれを実践するのでは意味がなく、しかしそれでは袋小路なので、ここはひとつ妥協して、強迫観念下での実践を良しとして、強迫観念下での実践をするのがいいのかとも思うが、それではやはり意味がないので、やはり袋小路なのである。

今月末に人生で初めて日本を脱出する。純で密な触れ合いができるといいな。

ノーベルやんちゃDE賞

人の劣等感を赤裸々に、口さがなく綴ったものが名作とよばれることが多いのはどうしてだろう。

もちろんSFにも推理小説にも名作はあるけど、こと純文学的分野において、恋慕のみっともなさや郷愁のむなしさ、見栄の自己破壊や落ちこぼれのひねくれた哲学に、文学的価値が見出されやすいのはなぜだろう。

 

ところで、この間寝付けずに早朝の5時過ぎまで起きていたら、窓の向こうから太陽の昇る音が聞こえた。比喩表現だとか、工事の音と間違えたとかそういうのではなく、ゴゴゴゴゴと、確かに遥か空を這い上がってくる太陽の苦悶の声を聞いた。圧倒的に感動的な情景だったのだけど、その後空に昇った肝心の太陽は、眩しすぎて直視することができなかった。

 

人が人の劣等感や諦念やニヒリズムを借りてきて、それに無責任に浸って快感を得ることについて、このことが直接的ではないにしろ小さな示唆を与えてくれたように思う。

 

空に昇った太陽が眩しくて直視できないように、人の誕生よりその死に方に世論の関心があるように、自分よりもっとひどい状況の人を嘲り笑って安心するように、身近な成功者をひとさじの憧憬とバケツいっぱいの劣等感をもって眺めるように……

きっと人は自分の努力で打ち立てる勝利の旗よりも、他人の失敗の上に築いた傲慢の鎖骨でできた小屋に住むことの方を志向する。眩しいものより暗いものの方が目に優しく、自分の現実より他人の劣情に胸を痛める方が安全だから。

自己破壊的な物語はその意味で、見せかけの再生を読者に与える。つまり、人はハッピーエンドではなくむしろバッドエンドに安らぎを覚える。

 

だからこそ世界の名作には、苦悶を筆舌の限りに描いた物語が多い。

 

のかもしれないな、と思った次第です。

 

 

 

つまり僕が朝が弱くて夜更かしが好きなのも、眩しいものより暗いものが好きな人間のどうしようもない性質で、ということは、自伝を書けば一飛びにノーベル文学賞

140では足りないが404文字

正直なところを申し上げれば、私は日本たばこ産業株式会社、すなわちJTの、ウィンストンはキャスター、甘くバニラの香りたつ、そのタール3mgもしくは5mgを好んで喫んでいるわけではありますが、家に備蓄したタバコが切れそうだってんで、こんな時間からコンビニに自転車のペダルをこぎこぎ、かかる銘柄のタバコをボックスで買い、ただいま帰宅したところで、ところがどうにも世間、それもアホ大学のアホ学生は、なんや強いタバコ吸っとるやつが偉いと思い込んでいるらしく、『キャスター吸ってんの(笑)』じゃねえ、てめえの脳みそは5mgもねえだろうが、と思うが、私の心は凪の日の海のように穏やかで気宇壮大、物事の皮相に固執しては無為徒食に甘んじる輩に世話を焼いている暇があればナスを炒め酒のツマミを作るのに心血を注いでは心が貧血の様相なので、ここは一発キャスターでも吸って復活しようという魂胆で、つまり、キャスターはめちゃうまい。以上