nikki

適当なことを言う日記です

コップの中で氷がとけきるまでの時間をはかったことがある。なんどやっても、私の家よりも彼の家でやる方がはやくとけた。りんごジュースを注いでも、麦茶を注いでも、飲むヨーグルトを注いでも、結果は同じだった。私たちはそこに霊的な意味を見出してはうっとりした。霊的でロマンチックな温度の不思議。いま考えれば、なんてことはない、あの人の家にある冷蔵庫の設定温度が少し高いせいで中の飲み物がぬるかったとか、そんなところだろう。ずいぶん古く、小さく、黄ばんだ、おもちゃじみた冷蔵庫だったから。東京といっても西の方の、八王子まではぎりぎりいかないくらいの、ほとんど埼玉みたいな雰囲気の街にその人は住んでいた。埼玉に住んだことはないけれど、その街はいわゆる東京のイメージとはかけ離れていた。うら寂しくて、夕方にはどこからか蚊取り線香の匂いが漂うような街だった。嘘じみた郷愁のはびこる街だった。お互いを慰めるように嘘じみたことを重ねた私たちの関係も、じき終わった。冷蔵庫の特性を魔法に仕立て上げなくては立ちゆかないような関係があっさり瓦解したのは、つづまり当然の成り行きではあった。別れた年は桜の開花が異様にはやかったが、私たちには関係のない話だった。桜は好きだ。新しい彼氏はできないまま、今年の冬はずいぶん寒く長い。今年もはやく桜が咲いてくれると良い。

読書会

今度この本を一緒に読みませんか。

いいですね。ぜひ読みましょう。

 

一緒に読むとはどういうことだろう、と、二つ返事で提案に乗ったあとで首を傾げた。一緒に、というくらいだから、喫茶店などで一冊の本を広げ、横並びで座り(対面では片方が上下逆さまで読むことになるのでそれはつらいだろう)、いちいち相手が読み終わったかどうかちらちらと確認しながら、ページを繰っていくのだろうか。「読んだ?」「読んだよ」なんて声をかけながら進めていくんだろうか。いずれにしても、私は読むのが遅いので迷惑をかけることになるかもしれない。それとも、各々が同じ本を一冊ずつ持ち寄り、黙々と読むのだろうか。それって空間を共有しているけどしかし、一緒に読むというのだろうか。まず、一緒にというのは、空間的な距離の近いことをいうのか、それとも時間とか精神とか、3次元よりももっと高次のレベルでの話なのか、よくわからない。そのひとは言葉を丁寧に選ぶひとだけど、同時に含みをもたせて相手に考える余地を与え、悩んでいるのをみて楽しむようなひとでもあるから、今の私はすっかり、してやられている。頭が良くて悪趣味なそのひとのことをカラスみたいだと言ったら、カラスを悪趣味と言下に決めつけるのはよくないと言い返されて、たしかに、と思ってしまった。モチーフとはステレオタイプのことに他ならない。などと本質めいたことを考えている時点で、私はそのひとが悪趣味であることを忘れている。負けている。そんな私をみて、そのひとはやはり笑っている。つくづく悪趣味だ。

 

頭のいいひとに対抗するのに一番良いのは、何も考えず物量的にものごとを行うことだ。だから私は、本を「一緒に読む」という段になったら、喫茶店で対面に座り、そのひとには逆さから読んでもらうことにしよう。それでもそのひとは、きっと勝ち誇ったような笑みを浮かべているに違いない。そして、どうやらその時、私の方でもそれを楽しんでいるように思うのだ。私たちはつくづく、悪趣味だ。

 

「君は寂しいんだね」

言われて、ああ、これは救いのような顔をした呪詛なのだ、と確信した。自分は寂しかったのだと思わされてしまった。とたんに、自分が寂しかったのか、本当はそうじゃなかったのかも分からなくなってしまった。

 

 

「このこと、みんなには内緒にできる?」

この人は、物語が好きなのだな、と思った。

 

 

「詩のように生きられないのなら、せめて好きなように生きたいな。好きなように生きられないのなら、せめて詩のように死にたい」

酔い覚ましの水を飲みながら、その人は言った。

カーテンを開くと、ちょうど朝日が昇ってきた。

1044文字

うちの姉は少し変わっている。どこがどのように変わっているのか、具体的に言い表すことはなかなか難しいのだけれど、家の中でもしじゅうマスクをつけているだとか、爪をほとんど切らないだとか、生き物のにおいがするから木のスプーンが嫌いだとか、要するにそういうことの積み重ねで、なんだか変なのだ。

 

明日ドライブに行かない、と誘われたのは昨日の夜の話で、僕は、ああ、とか、うん、とか、いいよ、とか言った。誤解してほしくないので言っておくけれど、僕は変な姉のことが好きだ。言ってみるとこっちの方がよほど誤解を招きそうだけれど、あえて何も言うまい。ドライブと言ってどこにいくのか、何をするのか、どちらが運転するのか、姉は何も決めずにいた。あるいは決めていて、何も知らせずにいた。それどころか、今朝になっても姉はまるで出かける準備もそぶりも見せないので、僕は夢で交わした約束を現実のことと混同しているのだろうか、その可能性の捨てきれないうちは姉に声をかけるのも気恥ずかしく、ただ時間の進むまま、昼食にUFOカップ焼きそばを食べ、入念に3回手を洗った。歯を磨きながら、やはり夢だったのだと確信を強め、悲しさ半分にほっとして、DHCのヘム鉄サプリメントを水と一緒に胃に流して、ごくりと喉を鳴らすと、けっこう元気が出たように思った。すると姉が、「そろそろ出るよ」と言うので、僕は、え?ああ、そういえばそんな約束もしてたっけね、ふむ、いやあ、すっかり、うっかり、というふうに、「あ、うん。」と言った。

 

僕はいま助手席に座っている。カーステレオには姉のiPhoneBluetoothで繋がれて、クラムボンが流れている。

 

高いところへ登ろう

とびきり高い高いところへ

そうすれば 二人のこれからも見えるかもしれないね

 

姉は黒い革手袋をはめて車を運転している。あいも変わらず変な姉だ。

 

「ねえ、高いところから未来が見えるなら、うんと低いところで、昔が見えたりするのかな」

 

「さあね。でも、この歌はそういうことを言ってるんじゃないと思う」

 

「馬鹿。昔が見たけりゃ、ビデオがあるじゃん。」

 

 

姉は郊外のだだ広い駐車場に車を停めた。免許センターの駐車場だった。

僕が二時間ベンチに座っている間に、姉は講習を受け終わって免許を更新した。

 

「みて、これ」

 

いましがたとった新しい免許証に写っているのは、確かに今の姉だった。

 

「古いのって、回収されちゃうんだね」

 

「また見たければ、うんと低いところにいきゃいいよ」

 

「つまんない」

ももとししとう

冷蔵庫の野菜室その奥底に消費期限をとうに過ぎたししとうがあり、しんしんと積もった黴は細雪を思わせた。目にした途端に視界は靉靆とし、前後不覚の霧中であるいは卒倒しようかというのをすんでのところで引き留めたのは右手にそっと握られたもも(🍑)だった。

 

皮を剥き身を切り皿に盛り付け

「ももが切れたよ」

と言いダイニングでひとりもも(めちゃ甘)を食らいやわらか・プレミアムティシュ コットンフィールで口をぬぐうと、ふたたび冷蔵庫の前に仁王立ちで立ちふさがり、いや冷蔵庫に仁王立ちで立ちふさがれ、えいと野菜室を開けると、ししとうは忽然と姿を消していた。こつぜん。

 

手からは淡いももの匂いがしたから、石けんは使わずに手を洗った。